函館大火により代用教員と遊軍記者、そのふたつの職業を同時に失って
しまった啄木は新天地を求めて単身札幌に赴きます。時に1907(明治40)年
5月のことです。現在函館札幌間をJR北海道の特急スーパー北斗は最速3時間
27分で結んでいますが、明治40年当時の所要時間は12時間との記録が残されて
います。啄木が札幌に住んだのはこの年の9月14日からわずか2週間に過ぎません。
ここまで来ると住んだと言うより滞在していたと言った方が適切ではないで
しょうか。この時期の啄木の消息はまことに慌ただしく、まるで何者かに
突き動かされて生きていたようにさえ見えます。家族との離合集散も頻繁に
繰り返されていました。ですから札幌で啄木の足跡を辿ろうとしても、実際の
ところ下宿屋くらいしか見つからないのが現実です。
札幌に到着した啄木は現在の北区北7条西4丁目にあたる場所にあった田中
サト方という下宿屋に投宿しながら、北門新報社という新聞社の校正係
として働き始めます。しかしわずか2週間で退職して小樽へ引っ越します。
田中サト方の跡地には現在札幌クレストビルという建物が建ち、その入り口には
ケースに入った啄木の胸像と案内板が設置されています。また市内中心部の
大通西3丁目にはブロンズ像と歌碑があります。そこには
「しんとして 幅広き街の秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほいよ」が刻まれています。
更に啄木との地縁はありませんが市内平岸の天神山にある林檎園には
「石狩の都の外の 君が家 林檎の花の散りてやあらむ」の歌碑があります。これは
函館の小学校で同僚だった橘千恵子を唄ったものとされ、片思いだったのか、
それとも相思相愛だったのかは不明ですが、立派な浮気の歌と言えます。
また市内中島公園の中にある北海道文学館には啄木に関連する資料(書籍を
含む)が159点収蔵されていて、閲覧が可能です。
さて10月には小樽に転出した啄木ですが、ここでも小樽日報社という
新聞社で記者の仕事を得ながら、またも社内紛争に巻き込まれて翌1908年
1月に退社、今度は釧路に向かいます。そのわずか2ヶ月後には勤務していた
釧路新聞を退社して上京する決意を固めたようです。しかし何と言う経歴
でしょうか、一つ所に長く務めることができない殆ど社会人としての体を
なしていません。まさに詩人だから許された生き方と言えましょう。でも
不思議なのはこんな青年を次から次へと採用した北海道の新聞社の太っ腹に
も感動を覚えます。そして何よりこんなちゃらんぽらんな青年が
現代人にも感興を呼ぶ歌を沢山残した、ということです。